碓氷峠を歩いて下って足が死にかけた話
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鉄道は坂に弱い。
現在のJRで最も急な坂はJR東海・飯田線の沢渡駅と赤木駅の間にある40‰(パーミル)の勾配ですが、これは分かりやすく言うと横に1000m進むと高さが40m上がる坂、もっと分かりやすく言うと1m進んで4cm上がる坂ということになります。
こんな坂、正直言って自動車や自転車からしたらちょろいもんです。
しかしこの坂を列車はモーターを唸らせながらフルパワーで駆け上っていきます。鉄のレールと鉄の車輪、この金属同士の少ない摩擦で進む鉄道にとってはこの程度の坂でもかなりのハードルとなってしまうからです。
ところがこの勾配を遥かに上回る急勾配がかつてJRにはありました。JR東日本信越本線・碓氷峠越えの横川駅(群馬県)~軽井沢駅(長野県)区間、通称横軽。
この区間の勾配66.7‰はあまりにも急であり、列車が自力で上ることができないため横軽専用の機関車EF63型が2両、峠の下側から全力で列車を押し上げて進む全国でも珍しい運転方法がとられていました。そのためか「峠のシェルパ」の異名を持つEF63、そして横軽は日本中の鉄道マニアを虜にし、常に高い人気を集めていました。
しかし1997年、長野新幹線の開業により特急が走らなくなった信越本線は第三セクター「しなの鉄道」に経営移管され、その特殊な運転方法からコストが異常に高かった横軽区間はあっさりと廃止されてしまいました。
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と、ここまでがお堅い説明。
この文章を書いているのはもう肌寒い10月ですが、タイトルの通り今年のゴールデンウィークにこの足で越えた碓氷峠の事を書きたいと思います。
4月29日
この日は一日所属する吹奏楽部の練習があり、その練習を少し早めに切り上げて今駅へ向かっている私の手元には
見ての通り魔z、、 切符があります。
遡ること一週間前、親がいきなり軽井沢旅行に行くと言い出した。
「えっでも部活が…」
ブラック部活に脳を占拠されたやつの末路。
行かなくてもいいのよと言われるも、置いてきぼりは嫌だし何より横軽の事を思い出しました。
「たしか来週は旧道経由のバスがあったな…軽井沢から代行バスで鉄道遺構を眺めながら横川に出て廃線跡散策でもしよう…」
この時私はこの構想が単なる夢物語であることを知るよしもありませんでした。まさかあの峠を徒歩で越えることになろうとは…
というわけでひとり新幹線に揺られ軽井沢に到着、家族と合流して父の会社の保養所で美味しい洋食コースを食べーの、卓球で汗を流しーの、眼鏡をはずしたため全てがモザイクにしか見えない露天風呂に浸かりました。
ここまではほのぼの家族旅行を満喫し、翌朝は私ひとり横川に向かい、その間家族はアウトレットやらに行ってからの横川駅で私を拾いそのまま家に帰るという算段でした。
4月30日
曇りと晴れを足して2で割ったような天気でありました。今私は軽井沢駅にいますが、バスの軽井沢駅発は9:15、現在時刻は10:05。完全に逃してしまったのです。
次のバスは11:20。待ってもよかったのだが落ち着きのない私の体がそれを許しませんでした。
「歩いてみっか、」
このときの私は完全に碓氷峠をナメ切っていました。今すぐにでもここにタイムスリップして碓氷峠の神様に全力で謝りたいと今は思います。ごめんよ神様
ビーフジャーキーとアーモンドチョコ、そして私の大好物神々が創り出した飲物、朝の茶事を持っていざ横川へ!
新幹線の向こうにかつての信越本線の線路が見えています。現在は長野駅から直江津駅の区間も第三セクターに移管され、3つに分断されてしまった栄光の長大幹線の残した跡です。
ちなみに廃止された横軽の線路や設備は地元自治体が保有・整備しており、とても廃線とは思えないような丁寧な手入れがなされています。というのも実は横軽をトロッコ観光列車で復活させようという動きがあるからで、現在横川駅から数キロメートルは既に復活してトロッコ列車が運行されています。
なんてうちに峠のサミットに到着。何だもう真ん中か、と思った方もいるかもしれません。
何を隠そう実はこの碓氷峠、もともとは平地であった場所の片側が激しく侵食されてできた典型的な「片峠」と呼ばれるもので、横川(群馬県)側は急な坂なのに対して軽井沢(長野県)側はほとんど勾配がありません。つまり軽井沢駅からここに来るまで私はなんの苦労もしていない「散歩 in 軽井沢」状態だったのです。
つまりここからが碓氷の本気ゾーン。
碓氷峠の国道18号には全部で183のカーブがあり、ここはその記念すべき一ヶ所目。このカウントがゼロになるまで私の足はフル稼働するでしょう。本当になんてチャレンジをしたんだ私は…
ただひとつ安心したことは車通りが少ないということ。上信越自動車道、あるいは碓氷峠の少し南にある入山峠のバイパスの方をみんな選んだのだろうか。
私の中の碓氷峠のイメージは完全にイニDだったのでその分安心感は膨れ上がるのです。
少し下ると遠くに線路が見えてきた。ここではまだ信越本線は道路の大分下を通るようです。
また少し歩いていくと私はとんでもないことに気づいてしまう。
最初に書いたように昨日部活から直接軽井沢に来た私は今学校のバッグを持っている。さらに私のこの高校生男子らしからぬ小柄な体格と相まって見た目は完全に中学生か小学生なのです。
こんなところにひとり出歩いている人なんて家出少年か自殺志願者くらいなものなのでとても怪しい。白黒の車が来ないことを祈るばかりです。
廃道のようななにか
40個近くカーブを消化したもののまだまだゴールは遠い。
そして熊に喰われることの次ぐらいに恐れていたことが起こってしまいます。
圏外ゾーン突入。
「疲れた」「るるちゃん(ゲームのキャラ)可愛い」などとつぶやけないのはツイ廃の私にとって超特大ダメージとなり、その時は碓氷峠をナメてかかった事に対する神様の怒りをも感じました。
そしてようやくめがね橋との中間を過ぎようかという頃、失ったエネルギーをFULLに再装填せんばかりのモノが私の目の前に現れたのです。
うおおおおおおおおおっ!
マジモンの線路出現。
自治体の所有地のため線路に入ることはタブーだが、どうやらギリギリまでは行けるようなので近づいてみることにしました。
20年前、まだ私はこの世に存在してすらいないが確かにここは毎日12両の特急あさま号とEF63が走り抜けていた信越本線の線路。
残念ながら架線は盗難されて残っていないが今にもトンネルの中から列車がやって来そうなこのスケールにただただ圧倒された。ここは20年前まで「生きた線路」だったのです。
ここからまた20分ほど歩くと熊ノ平信号場跡があり、そこから横川駅までは1963年まで使われたアプト式の旧線跡が整備された遊歩道「アプトの道」が続いています。
※写真を撮った4月から現在10月までの間に何故かメモリーカードが馬鹿になって一部の写真が消えるという事件があり、運悪く熊ノ平の写真は全てが葬り去られてしまったため写真がありません。すみません許してください何でもしますから!
写真のない熊ノ平からは遊歩道を進むのだがヤマビル注意やスズメバチ注意の張り紙がたくさん貼ってあったのを覚えています。恐ええよ。
EF63や特急あさまが登場するずっと前、1893年に碓氷峠の鉄路は誕生しました。当時は歯車を噛み合わせてその力で登る「アプト式」が採用され、線路も単線でした。
その後度重なる輸送需要の増加に追われ、信越本線は単線では手に負えなくなって1963年に複線化、アプト式は廃止されました。そのため現在は碓氷峠には三本の廃線があることになります。
1963年に完成した複線は「新線」、アプト式の廃線は「旧線」と呼ばれたことが多く、今でもそう呼ばれています。
そんなアプト式の旧線には碓氷峠で一番と言っても過言ではない鉄道遺構が存在するのです。
碓氷第三橋梁、通称めがね橋
全長91m、高さ31mのこの巨大アーチ橋梁に使われた煉瓦の数はなんと200万個。煉瓦一つ一つに一円玉が埋まってたら200万円にもなります。凄いでしょ
さらにこれだけの大きさの橋がたった2年で完成したというのだから驚きである。明治時代に。
もうこの辺りに来る頃には足が砕け散ってしまいそうだったので写真を撮っただけですぐに橋の上のベンチに腰かけたその時
奴と目の高さがぴったりあった。スズメバチ兄貴です。
騒ぐおばさん方、逃げろと急かすおじさん、限界を超える足。
とりあえず周りに合わせて逃げたがお陰で私の休憩タイムは台無しになってしまいました。
改めてみるとやはり急な坂
めがね橋から10分ほど歩くと碓氷湖に到着します。
初夏の山々の緑が湖に映えてとてもキレイな景色を造り出しています。
インスタなんてインストールすらしたこと無いけどこれはかなりインスタ映えするのではないでしょうか?
ちなみにこのあとスマホを落としそれ以来本体がパッカリ割れるようになってしまいました。やはり碓氷峠の神様を怒らしてはいけないようだ。
新線と合流し、丸山変電所跡を過ぎると横川駅まではあと少し、という風に聞いていたのだが何なんだこのバカ長い直線は…
美術の授業でやった消失点(?)が非常に分かりやすうございます…
いままで四時間近く歩き続けた私にとってこの直線は体力的というより精神的にくるものがあります。どう考えても嫌がらせ。
「この直線をクリアすれば、釜めしが待っている…」
思い返せば昼飯をまだ食べていない。人間とは不思議なものでそう考え出すと更に腹が減ってゆきます。
ヴィーーーーン…ガシャン!‼ プシューッ…
ついに見えた、碓氷峠鉄道文化むらのEF63だ!
午後2時半、横川駅到着
中3でテニス部を引退して以来ろくに運動をしてこなかった私の体には15kmの下り坂は案の定キツかった。
しかしよく考えればここに、いや日本にまだ鉄道や車がなかった時代は旅も郵便も何もかも歩きだったに違いない。
長野県歌「信濃の国」六番にこんな歌詞があります。
“吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓井山
穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の路”
碓井山とはこの碓氷峠のことですが、この区間の鉄道は当時の人々にとって“夢”だったのです。
66.7‰の急勾配やアプト式、そしてEF63はその姿を消しました。
今ではこの峠の地下を日本の技術の賜物、新幹線が時速200kmで現代の人の夢をのせて駆け抜けています。
鉄道マニアながらにいつも何気なく乗っている鉄道のありがたみを再認識した一日だったかもしれない。
そのあと鉄道文化むらを見て回り、釜飯を食べて家に帰りました。
次の日は学校である。
そして最後にこれだけ言わせて欲しい。
バスの本数増やしてください!
おわり